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プロ野球 私の記憶 野球好きの私が、いつのころからかプロ野球を見なくなり、たまに見ても、現役で活躍している選手よりも監督やコーチや解説者の方が誰だかわかるような年になってきた今日このごろ。その昔、野球と格闘し私を興奮させてきたあの選手たちを今でも思い出します。そして、若かったあの時の興奮の記憶は、50代の半ばになった今でも時々私の脳裏をかすめます。このブログは、そんな感情を共有できる私と同年代のおやじたち、また自分自身の備忘録として綴っていきたいと思います。

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石橋を3度叩いて渡った監督 川上哲治

石橋をたたいても渡らなかったら、永遠に結論はを出せないので、あえて3度叩いて渡ったと言わせてもらうのが、この方にふさわしいと思う。

2013年10月28日に、元巨人軍監督の川上哲治さんが逝去されました。93才という年齢で、亡くなったというからには人生を全うしての死であったと想像させていただきます。

私は、昭和32年生まれで、この川上哲治氏の現役時代というのは記憶になくて、V9時代を突っ走っていた読売巨人の監督というのが、一番古い記憶です。

厳しかったというエピソードで私が覚えているのが、黒江の1試合エラー2つの交代です。
テレビ観戦時の記憶のまま書きます。

アナ「おっと、黒江がファンブルしました。」

ランナーで塁上が埋まる。
タイムがかかり、内野手がピッチャーズマウンドに集まっている。
エラーをした黒江が渋い顔をしている。

アナ「黒江は、今日2つ目のエラーですね。」  
アナ「ひょっとして、川上監督が、、、」
アナ「あー、ベンチから出てきましたね。」
アナ「黒江が交代のようです。」

こんな感じだったと思う。エラーを2つしたら交代という、石橋を3回叩いて渡った例である。

特にV9時代は、王・長嶋という主軸バッターの存在があまりにも大きかったので、打撃中心のチームの記憶があるが、実は、守備に重点をおいたチームだったということを忘れてはならない。特に、外野手の高田・柴田・末次、内野二遊間の黒江・土井は鉄壁であった。

こんな厳しさをもつ川上氏であるが、後年、選手たちには国債を勧めていたという話を聞いたことがある。今は、現役を継続し、生活を維持できているけれども、その後のことはわからない。そのような時のため、、、というような話だったと私の記憶にはある。

監督を引退した後は、少年野球教室とかで野球少年を育てることに一役買っていたこともあった。その後、NHKの野球解説もやるようになっていた。川上氏の解説を揶揄した芸人のこんなネタがあった。

アナ「ノーアウトランナー2塁・3塁です。川上さん、どうですか?」
川上「あー、これはチャンスですね。」

勝つために当たり前のことをしてきた方の当たり前の解説といったところでしょうか?

私が、この川上氏の最後のユニホーム姿を見たのは、おそらく巨人のOB戦だったと思う。バッターで出てきて、ピッチャーがボールを投げた瞬間に、左バッターボックス内をピッチャー方向へ3歩進んで打つという打ち方をしていた。「1」で右足「2」で左足「3」で右足で出した瞬間にミートするという打ち方だ。その時の川上氏の年齢に記憶はないが、かなり高齢だったと思う。現役時代のバッティングを見たことのない私だったが、この時のバッティングを見て、打撃の神様の異名に納得がいった。


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