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プロ野球 私の記憶 野球好きの私が、いつのころからかプロ野球を見なくなり、たまに見ても、現役で活躍している選手よりも監督やコーチや解説者の方が誰だかわかるような年になってきた今日このごろ。その昔、野球と格闘し私を興奮させてきたあの選手たちを今でも思い出します。そして、若かったあの時の興奮の記憶は、50代の半ばになった今でも時々私の脳裏をかすめます。このブログは、そんな感情を共有できる私と同年代のおやじたち、また自分自身の備忘録として綴っていきたいと思います。

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第一印象はフランキー堺 広角打法・安打製造機の張本勲

私が、張本勲を初めてじっくりと見たのは、長嶋茂雄の巨人軍監督就任2年目である。じっくりとと言っているのは、張本が以前入団していた東映フライヤーズ(現日本ハムファイターズ)は、パ・リーグで当時はテレビ中継がほとんどなく、あったとしてもスポーツニュースの片隅で試合結果が報告されるぐらいだったからである。そして、その試合結果を放送する数分の中では、たとえ大打者ではあっても、記憶に残ることはあまりなかったのである。当時はまさに巨人の独壇場である。

確か、日曜日の午前中に放送されていたニッテレのミユキ野球教室で「長嶋監督の下で王(ワン)ちゃんの三冠王の手助けをしたい。」と話していたと記憶している。父はこの番組をよく見ていて、この時は母もいっしょにみ見ていた。

「張本ってフランキー堺に似ているね?」(私)
「え?ああ、そうか?」(父)
父はフランキー堺を知らないのかもしれない。
「長嶋に似ているよ。」(母)・・・ どこが似ているんだ。

と、こんな会話が繰り広げられていた。

正直に言うと、読売ジャイアンツが最下位だった前年のプロ野球を、私はほとんどテレビ観戦をすることがなかった。や、プロ野球に限らず、テレビそのものをほとんど見ていなかったのだ。なぜかわからないがこの年は見ていなかった。よって、長嶋巨人が最下位になったことはわかってはいても、巨人ファンの胸に秘めた悔しさは味わっていなかった。

そこへきての張本のトレードである。見るからにホームランを打ちそうな、ヒットを量産しそうなバッターである。加えて、前年の不調から目覚めたD.ジョンソンもいる。巨人の打撃は大丈夫そうだな。でも、ピッチャーは?と思ったのは私だけではないだろう。

ペナントレースが始まると、予想通り打撃部門は大活躍、確か夏前ぐらいまでは、この時の1番バッターから6番バッターまでが、3割バッターだったのを記憶している。まさに、張本効果である。通常は、3番張本・4番王であったが、時々、3番王・4番張本にスターティングラインナップが変更されることがあった。王さん自身は、長年、3番ファースト王で戦ってきたので、3番の方が慣れているし、必ず1回の表か裏に打席が回ってくるので、心構えができる、というようなことを言っていた。しかし、張本にしてみれば、そうはいかない。王さんの三冠王を手助けするために、王さんの前に塁上にランナーとしていなければならないからである。

そして、この年のペナントレースは、巨人のブッチギリの中で幕を落としていく。シーズン中、14連勝・13連勝を記録したのもこの年だ。張本様様である。残念なのは、シーズン後半になって、首位打者を争っていたのだが、中日の矢沢に奪われたことだ。この時の首位打者と準首位打者の記録の僅差は、今も記録となっているらしい。

かくて、阪急との日本シリーズになっていく。しかし、張本はついていなかった。いい当たりの打球が、3回も4回も阪急の野手の正面をつくのである。「こんな3回も4回も馬鹿な話はない!」といって塩を体に振りまいた。3連敗した。しかし、その後3連勝した。7対0から逆転もした。でも、シリーズ制覇はできなかった。そして、翌年もペナントは勝ち取れたが、シリーズは阪急が持って行った。

2年後、張本はロッテへ移籍される。そして、あの大記録の3000本安打を達成する。張本自身は、終始、巨人にあこがれていた。そして、そのあこがれの巨人に入団し貢献した。シリーズ制覇は叶わなかった。でも、もう少し、巨人にいられれば、そのあこがれの球団で3000本安打の記録を飾れた。巨人のユニホームを着て、インタビューに答える張本の姿を見ることができた。それが一番残念に思う。


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