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プロ野球 私の記憶 野球好きの私が、いつのころからかプロ野球を見なくなり、たまに見ても、現役で活躍している選手よりも監督やコーチや解説者の方が誰だかわかるような年になってきた今日このごろ。その昔、野球と格闘し私を興奮させてきたあの選手たちを今でも思い出します。そして、若かったあの時の興奮の記憶は、50代の半ばになった今でも時々私の脳裏をかすめます。このブログは、そんな感情を共有できる私と同年代のおやじたち、また自分自身の備忘録として綴っていきたいと思います。

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初めて見たホームスチールは黒江透修

ホームスチールとは、自殺に等しい行為である。なんせ、2盗や3盗と違い、ボールが向かっていく方向へ走っていってタッチされに行くようなものであるのだから。

そんなホームスチールをテレビで初めて見たのが、この黒江だった。体格はけっしてスマートとはいえず、どちらかというと、ずんぐりむっくりといった方がふさわしく、とても足が速いとは思えない。そんな彼が、サードランナーにいた。ピッチャーが投球動作に入った瞬間に、走り出し、ホームを陥れた。ピッチャーにとっては、あまりランナーが見えてなかった時で、キャッチャーがボールを落としたようだった。セーフ。
その時の解説者は、「ピッチャーが投げようとした瞬間に、するするっと出ていきましたね。」と言ったのを覚えている。確かに、このするするっというのが大事で、たんたんざざざでは、ばれてしまう。

黒江の足の速さをめぐるエピソードとしては、ランナー追い越しというのもある。テレビ中継中だったのだが、このシーンは放映されていなかった。というよりも、当時は、今のようにたくさんのテレビカメラがあったわけではないので、カメラに収めることができなかったといった方がふさわしいかもしれない。2塁を回って遊撃手付近まで来たときに、前のランナーを追い越したようだった。テレビに映ったのは、相手キャッチャーが黒江の走っている方向に向かって指を指し、主審にアピールをしているところだった。その後、黒江はアウトを宣告されてしまった。黒江は、主審の方に来て抗議をしだした。私の記憶にある彼の講義内容は「前のランナーを押しただけだ。押したから、抜いたように見えたんだ。」であったと思う。

1964年に読売ジャイアンツに入団して、1974年までいたのだから、V9時代の功労者といってもいいと思われるのだが、選手としての最後は、森昌彦といっしょに読売ジャイアンツをおわれるように去って行った感じだった。あの華やかな長嶋茂雄選手の引退試合とは裏腹に、、、

後年、黒江は、様々なチームのコーチや二軍監督となって、優勝に貢献していた。初めのころこそ、読売ジャイアンツでコーチなどを務めていたが、その後、西武のコーチなどを務めるようになる。そして、ここには何か因縁めいたものを感じるのは私だけではないだろう。当時、読売ジャイアンツを日本シリーズでたたけるパ・リーグの球団は、西武ライオンズしかいなかった。広岡監督率いる西武は、森昌彦そしてこの黒江透修をコーチとして招き入れているのである。広岡監督も含めこの3人はいうなれば、読売ジャイアンツを追われた名選手といわれている。追われた人たちから見た読売ジャイアンツは、叩いてこそ満足のいくものであるから。


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