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プロ野球 私の記憶 野球好きの私が、いつのころからかプロ野球を見なくなり、たまに見ても、現役で活躍している選手よりも監督やコーチや解説者の方が誰だかわかるような年になってきた今日このごろ。その昔、野球と格闘し私を興奮させてきたあの選手たちを今でも思い出します。そして、若かったあの時の興奮の記憶は、50代の半ばになった今でも時々私の脳裏をかすめます。このブログは、そんな感情を共有できる私と同年代のおやじたち、また自分自身の備忘録として綴っていきたいと思います。

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阪神にドラフト拒否された古田敦也

90年代のヤクルトスワローズの黄金期は、この人なしには語れない。古田敦也 立命館大学を出て、ドラフト指名されるかと思いきや、社会人トヨタ自動車に入社。2年間そこで頑張った末、ようやくプロへ、、、大学で4年、社会人野球で2年の6年間も非プロ野球をしていたのは、若い時期でもあり、非常にもったいないと思うのは私だけではないだろう。もっとも本人が入団を希望していた阪神からは「メガネキャッチャーはだめだ。」の一言で指名されなかったというのも何か皮肉めいた話に聞こえる。

しかし、そのような遅いプロデビューをしていながら、古田は2000本安打を打ち、名球会に入ってしまうのである。キャッチャーというハンデのあるポジションでいながら2000本のホームランを放つのは並大抵のことではないと思うが、一番恐ろしいのはそのキャッチングの技術である。キャッチングがうまいからこそ、盗塁の阻止も絶品の仕上がりになるのである。ボールを取った瞬間には、もうすでに投げる体制になっているのである。

いつのオールスターだったかは、忘れたが、盗塁を3つ阻止したことがあった。1試合に3つの盗塁阻止が多いか少ないかは、わからないが、夢の球宴である。阻止されたランナーは、まさかという目で古田の方を見ていた。「パにはこんなキャッチャーいないよ。」とでもいいたそうな目だった。

古田の入団前は、八重樫や秦や飯田などがキャッチャーを務めていたが、古田を名捕手に仕立て上げようという当時の野村監督のこころづもりから、正捕手の道を歩んでいった。ベンチにいる時は、いつも野村監督の前に座らさせられ、ID野球解説を聞かされていたのを今でも思い出す。そんな中で、ヤクルトの選手たちも成長していき、リーグ優勝を果たした92年、日本シリーズで森西武と戦うことになるのである。森も捕手出身で伊東というキャッチャーを育て、対する野村も古田を育てた。捕手監督同士のID決戦シリーズは、熾烈を極めた。この年の日本シリーズも記憶に残るシリーズとなった。

「古田が夢遊病者のようだ。」とは、当時の野村監督の試合後の談話である。ありとあらゆるデータを頭に詰め込み、戦わなければならないキャッチャーというの非常に気の重くなるポジションでもある。
特に第6戦の逆転の逆転の逆転の逆転の試合は、もう見ちゃいられない試合だったのを記憶している。
この6戦はヤクルトが勝利したが、最終戦で西武が勝ち、西武の連覇となった。このシリーズは、負けたけれども、古田にとっては非常に勉強になったシリーズだった。なんせ、翌年のシリーズはまた同一カードとなったけれどもヤクルトがものにしているのだから。それもこれも、このシリーズで成長した古田のリードがさらに光っていた。


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