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プロ野球 私の記憶 野球好きの私が、いつのころからかプロ野球を見なくなり、たまに見ても、現役で活躍している選手よりも監督やコーチや解説者の方が誰だかわかるような年になってきた今日このごろ。その昔、野球と格闘し私を興奮させてきたあの選手たちを今でも思い出します。そして、若かったあの時の興奮の記憶は、50代の半ばになった今でも時々私の脳裏をかすめます。このブログは、そんな感情を共有できる私と同年代のおやじたち、また自分自身の備忘録として綴っていきたいと思います。

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誰もが泣いた長嶋茂雄の引退セレモニー

もし、プロ野球選手ひとりだけの話で2時間のテレビ番組を作成し、見る人を最後まで飽きさせない人がいるとしたらこの人をおいてないだろう。現役選手時代のその少なくないエピソードは、今も思い出すだけで笑みがこぼれる。

私は、小学校時代からプロ野球を見始めていたが、見始めるきっかけになったのが、単に父親が見ていたからということに過ぎない。当時、テレビなどというのは、一家に1台しかないのが普通だから、家族で見たい番組が重なると、じゃんけんをしたり、予約表を作ったりして決めていたものだ。

そんな中で、父がチャンネルを握った日、私は、父の横に座って野球を見ていた。見ていたというよりは、ルールも知らないのだから、眺めていたといった方がいいかもしれない。人間、おかしなもので、分からないなら分からないなりに、理解しようと思うらしい。あそこ(ショートの位置)にいる人は、さっきバットを持って立っていた人だから、順番にふたつのチームが、打ったり、投げたりするんだなというように、、、最初はそんなものである。ところが、そのうち、ひとりで考えても分からないことが出てくる。「さっき、ボールがバットに当たって後ろに飛んだ時、画面のSという文字の横に〇がひとつ増えたけど、今度は増えなかったよ。」父に聞いていた。答えは、「Sというところには、ボールが当って後ろに飛んだ時には、2つまでは〇が付くんだよ。」なるほど、少しずつ野球が分かり、好きになっていった。

当時、プロ野球は、NHKを除くほとんどのチャンネルで同時に巨人戦を放送していたというのが、私の記憶であるが、今では考えられないことである。そして、そこには、必ず長嶋茂雄がいた。必ず、何かをしてくれた。

ただそんな私でも、当時、長嶋のことを好きだったのかという記憶がない。でも、みんなが好きだった。巨人が好きだった。その勢いで応援した。そして、毎年のごとく優勝し、日本シリーズを制覇していく。あの時の巨人は強かった。そして、V10を目指したその年、引退を迎える。

その日、私が高校から帰ってきたら、自宅には母と姉しかいなかった。とてもこのふたりが、野球番組にチャンネルを合わせるとは思えないのだが、なぜか長嶋の引退試合がブラウン管に映っていた。この日は、ダブルヘッダーで、第一試合が終わった時、長嶋はファンへの最後のあいさつをしたいと球場を一周回った。今まで自分を見て喜んでくれたファンへの最後のサービスのお返しである。

そして、最後の打球が飛び、ゲームセット。
最終回、カメラマンは長嶋しか追っていなかった。
長い間お疲れ様。
徐々に夕日に包まれていく後楽園球場の中で、、、

「昭和33年、栄光の読売巨人軍入団以来17年間・・・・
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 我が巨人軍は、永久に不滅です。」

涙が止まらなかった。母も泣いた。

長嶋の「体力の限界を知るにいたり、、、」の言葉の後、「まだいけるよ~。」とのファンの声援が今も耳に残っている。


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